<< 同棲生活 | main | 妙な医学生 >>

スポンサーサイト

  • 2007.01.03 Wednesday
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


リンゲル氏液内の生態

    リンゲル氏液内の生態

 生きている腸(はらわた)――なんてものは、文献の上では、さまで珍奇なものではなかった。
 生理学の教科書を見れば、リンゲル氏液の中で生きているモルモットの腸(ちょう)、兎の腸(ちょう)、犬の腸(ちょう)、それから人間の腸(ちょう)など、うるさいほどたくさんに書きつらなっている。
 標本としても生きている腸(ちょう)は、そう珍らしいものではない。
 医学生吹矢が、ここにひそかに誇りとするものは、この見事なる幅広の大腸(ちょう)が、ステッキよりももっと長い、百C・M(ツェーエム)もリンゲル氏液の入った太いガラス管の中で、活撥な蠕動をつづけているということであった。こんな立派なやつはおそらく天下にどこにもなかろう。まったくもってわが熊本博士はえらいところがあると、彼はガラス管にむかって恭々しく敬礼をささげたのだった。
 彼は生ける腸(はらわた)を、部屋の中央に飾りつけた。天井から紐をぶら下げ、それにガラス管の口をしばりつけたものであった。下には、ガラス管のお尻をうける台をつくった。
 黴くさい医学書が山のように積みあげられ、そしてわけのわからぬ錆ついた手術具や医療器械やが、所もせまくもちこまれている医学生吹矢の室は、もともと奇々怪々なる風景を呈していたが、いまこの珍客「生ける腸(はらわた)」を迎えて、いよいよ怪奇的装飾は整った。
 吹矢は脚の高い三脚椅子を天井からぶら下る[#底本では「天井からぶら下げる」]ガガラス管の前にもっていった。彼はその上にちょこんと腰をかけ、さも感にたえたというふうに腕組みして、清澄なる液体のなかに蠢くこの奇妙な人体の一部を凝視している。
 ぐにゃ、、ぐにゃ、ぐにゃ。
 ぷるっ、ぷるっ、ぷるっ。[#底本では「ぶるっ、ぶるっ、ぶるっ。」]
 見ていると腸(はらわた)は、人間の顔などでは到底表わせないような複雑な表情でもって、全面を曲げ動かしている。
「おかしなものだ。しかし、こいつはこうして見ていると、人間よりも高等な生き物のような気がする」
 と医学生吹矢は、ふと論理学を超越した卓抜なる所見を洩らした。
 それからのちの医学生吹矢は、彼自身が生ける腸(はらわた)になってしまうのではないかとおもわれるふうに、ガラス管の前に石像のように固くなったままいつまでも生ける腸(はらわた)から目を放そうとはしなかった。
 食事も、尾籠な話であるが排泄も彼は極端に切りつめているようであった。ほんの一、二分でも、彼は生きている腸(はらわた)の前をはなれるのを好まなかった。
 そういう状態が、三日もつづいた。
 その揚句のことであった。
 彼は連日の緊張生活に疲れ切って、いつの間にか三脚椅子の上に眠りこんでいたらしく自分の高鼾にはっと目ざめた。室内はまっくらであった。
 彼は不吉な予感に襲われた。すぐと彼は椅子からとびおりて、電燈のスイッチをひねった。大切な、生ける腸(はらわた)が、もしや盗まれたのではないかと思ったからである。
「ふーん、まあよかった」
 腸(はらわた)の入ったガラス管は、あいかわらず天井からぶらさがっていた。
 だが彼は、間もなく悲鳴に似た叫び声をあげた。
「あっ、たいへんだ。腸(はらわた)が動いていない!」
 彼はどすんと床の上に大きな音をたてて、尻餅をついた。彼は気違いのように頭髪をかきむしった。真黒い嵐のような絶望!
「ま、待てよ――」
 彼はひとりで顔を赭らめて、立ちあがった。彼はピューレットを手にもった。そして三脚椅子の上にのぼった。
 ガラス管の中から、清澄なる液をピューレット一杯に吸いとった。そしてそれを排水口に流した。
 そのあとで、薬品棚から一万倍のコリン液と貼札してある壜を下ろし、空のピューレットをその中にさしこんだ。
 液は下から吸いあがってきた。
 彼は敏捷にまた三脚椅子の上にとびあがった。そしてコリン液を抱いているピューレットを、そっとガラス管の中にうつした。
 液はしずかに、リンゲル氏液の中にとけていった。
 ガラス管の中をじっと見つめている彼の眼はすごいものであった。が、しばらくして彼の口辺に、微笑がうかんだ。
「――動きだした」
 腸(はらわた)は、ふたたび、ぐるっ、ぐるっ、ぐるっと蠕動をはじめたのであった。
「コリンを忘れていたなんて、俺もちっとどうかしている」
 と彼は少女のように恥らいつつ、大きな溜息をついた。
「腸(はらわた)はまだ生きている。しかし早速、訓練にとりかからないと、途中で死んでしまうかもしれない」
 彼はシャツの腕をまくりあげ、壁にかけてあった汚れた手術衣に腕をとおした。

     素晴らしき実験

 彼は、別人のように活撥になっていた。
「さあ、訓練だ」
 なにを訓練するのであろうか。彼は、部屋の中を歩きまわって、蛇管や清浄器や架台など、いろいろなものを抱えあつめてきた。
「さあ、、医学史はじまっての大実験に、俺はきっと凱歌をあげてみせるぞ」
 彼は、ぼつぼつ独り言をいいながら、さらにレトルトや金網やブンゼン燈などをあつめてきた。
 そのうちに彼は、あつめてきた道具の真ん中に立って、まるで芝居の大道具方のように実験用器の組立てにかかった。
 見る見るガラスと金具と液体との建築は、たいへん大がかりにまとまっていった。その建築はどうやら生ける腸(はらわた)の入ったガラス管を中心とするように見えた。
 電気のスイッチが入ってパイロット・ランプが青から赤にかわった。部屋の隅では、ごとごとと低い音をたてて喞筒モートルが廻りだした。
 医学生吹矢隆二の両眼は、いよいよ気味わるい光をおびてきた。
 一体彼は、何を始めようというのであるか。
 電気も通じてブンゼン燈にも薄青い焔が点ぜられた。
 生ける腸(はらわた)の入ったガラス管の中には、二本の細いガラス管がさしこまれた。
 その一本からは、ぶくぶくと小さい泡がたった。
 吹矢隆二は、大きな画板みたいなものを首から紐でかけ、そして鉛筆のさきをなめながら、電流計や比重計や温度計の前を、かわるがわる往ったり来たりして、首にかけた方眼紙の上に色鉛筆でもってマークをつけていった。
 赤と青と緑と紫と黒との曲線がすこしずつ方眼紙の上をのびてゆく。
 そうしているうちにも、彼はガラス管の前に小首をかたむけ、熱心な眼つきで、蠕動をつづける腸(はらわた)をながめるのであった。
 彼は文字通り寝食を忘れて、この忍耐のいる実験を継続した。まったく人間業とはおもわれない活動ぶりであった。
 今朝の六時と、夕方の六時と、この二つの時刻における腸(はらわた)の状況をくらべてみると、たしかにすこし様子がかわっている。
 さらにまた十二時間経つと、また何かしら変った状態が看取されるのであった。
 実験がすすむにつれ、リンゲル氏液の温度はすこしずつのぼり、それからまたリンゲル氏液の濃度はすこしずつ減少していった。
 実験第四日目においては、腸(はらわた)を収容しているガラス管の中は、ほとんど水ばかりの液になった。
 実験第六日目には、ガラス管の中に液体は見えずになり、その代りに淡紅色のガスがもやもやと雲のようにうごいていた。
 ガラス管の中には、液のなくなったことを知らぬげに、例の腸(はらわた)はぴくりぴくりと蠕動をつづけているのであった。
 医学生吹矢の顔は、馬鹿囃の面のように、かたい笑いが貼りついていた。
「うふん、うふん。いやもうここまででも、世界の医学史をりっぱに破ってしまったんだ。ガス体の中で生きている腸(はらわた)! ああなんという素晴らしい実験だ!」
 彼はつぎつぎに新らしい装置を準備しては古い装置をとりのけた。
 実験第八日目には、ガラス管の中のガスは、無色透明になってしまった。
 実験第九日目には、ブンゼン燈の焔が消えた。ぶくぶくと泡立っていたガスが停った。
 実験第十日目には、モートルの音までがぴたりと停ってしまった。実験室のなかは、廃墟のようにしーんとしてしまった。
 ちょうどそれは、午前三時のことであった。
 それからなお二十四時間というものを、彼は慎重な感度でそのままに放置した。
 二十四時間経ったその翌日の午前三時であった。彼はおずおずとガラス管のそばに顔をよせた。
 ガラス管の中の腸(はらわた)は、今や常温湿度[#底本では「常温常湿度」]の大気中で、ぐにゃりぐにゃりと活撥な蠕動をつづけていた。
 医学生吹矢隆二は彼の考案した独特の訓練法により、世界中のいかなる医学者も[#底本では「いかなる医学生も」]手をつけたことのなかったところの、大気中における腸(はらわた)の生存実験についに成功した[#底本では「生存実験について成功した」]のであった。

スポンサーサイト

  • 2007.01.03 Wednesday
  • -
  • 12:34
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
トラックバック